1 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:26:46 ID:p0g

ずっと解説者と監督してるイメージやわ



2 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:29:55 ID:K9m

杉谷位の選手やろ

ただし人気者ではない

5 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:53:39 ID:jlt

>>2

9 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)23:39:37 ID:K9m

>>5

お前が呼んだんやろw

6 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:54:59 ID:WP5

堺雅人みたいな顔してた

7 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:55:54 ID:6hb

センターオーバーの打球を追って

ようフェンスに激突してたわ

8 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)20:56:56 ID:fE3

>>7

案外熱ケツプレイなのか

10 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)23:41:01 ID:6eU

>>7

わいもこのイメージ

ホームランも何回か取ってるけど

12 : パレードの名無しさん@おーぷん投稿日:2016/07/24(日)23:51:54 ID:K9m

>>7

パワプロかな?

https://ja.wikipedia.org/wiki/栗山英樹


プロ野球選手時代


1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たすも、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。


それでも生き残りをかけ、2年目1985年からは、俊足を生かしたスイッチヒッター、外野手への転向を試みる。ジュニアオールスターゲーム出場。


二軍での猛練習が功を奏し、3年目の後半には1番中堅手としてレギュラーに定着、規定打席不足ながら打率.301をマークする。しかし、プロ2年目から平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。


3年目のオフには長期入院して治療に専念し、4年目の開幕には間に合ったものの、入院期間のブランクによる調整不足からレギュラーを外される。シーズン後半からは二軍で練習に専念したが、その年のオフのユマキャンプで今度は左足の肉離れを起こす。


5年目の1988年は、肉離れの影響で開幕2か月を棒に振ったものの、前年の猛練習の成果もあって1番・中堅手に定着し、規定打席にやや不足ながら打率.331を記録した。


6年目の1989年には主に2番・中堅手で開幕からレギュラーに定着。初の規定打席を記録し、打率.255に終わったものの犠打37を記録、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。


1990年に野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一の中堅手抜擢により再びレギュラーの座を追われた。さらに右肘の故障やメニエール病再発の不安から、現役を引退した。



メニエール病との闘い


栗山の野球人生は病気と怪我との闘いであり、中でも原因不明のメニエール病の発症は、その後のプロ野球人生に深い影を落とした。


メニエール病が最初に襲ったのは2年目にあたる5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠し、頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。


入団当初から体力的にも技術的にも他の選手に劣り、その差を猛練習でカバーしてきた栗山にとって、他の選手以上の練習ができなくなるということはすなわち引退を意味していた。この頃から本人も、選手生命がそれほど長くはならないことを悟っていたようである。


2年目のオフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的には回復したものの、3年目の終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになった。同年のオフには長期入院を余儀なくされ、ユマキャンプにも参加できず、いつこの病が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送ることになる。しかし、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供が自分よりも遥かに深刻な病を持っていることを知らされてからは自分の甘さを恥じ、「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」という前向きな気持ちになれた、と後に語っている。